岡山科学技術専門学校 建築工学科: 利休七則


2010/06/27

利休七則

建築にも関係の深い茶人、千利休の教えをご存知ですか?
建築のみならず、人生の教えとして一読していただければと思います。

以下は茶の湯倶楽部の亭主の方が書いたものです。

『利休七則』とは、茶の湯を学ぶ者にとって基本となる心得です。
『則』と言っても、守るべき「決まり」とは考えず、むしろ心掛けたい「気遣い」と理解した方が良いでしょう。
 では、順を追って一つづつ御説明していきましょう。

一、茶は服のよきように点て
二、炭は湯の沸くように置き
三、花は野にあるように
四、夏は涼しく冬暖かに
五、刻限は早めに
六、降らずとも傘の用意
七、相客に心せよ

一、茶は服のよきように点て

 「服」とは、飲むことを意味します。茶に限らず、薬・煙草にも用いられる言葉で、服用・一服などと例を挙げれば分かり易いかもしれません。
 ここで言う「服のよきよう」とは、飲んだ人にとって「調度良い加減」という意味となります。つまり、自分の点て易いように点てること戒めているのです。
 但し、これは単に客の好みに合わせろということではありません。その時・その場所での客の気持ちを察して、「よく考えて点てるように」ということです。(有名な豊臣秀吉と石田三成との出会いの場面は、この良い例でしょう。)

 亭主の解釈……「事を行うには、相手の気持ち・状況を考えて。」

二、炭は湯の沸くように置き

 「炭」は無論木炭のことですが、これは単に「湯が早く沸騰するような炭の置き方」を云々しているのではありません。
 ここで言う「置き」とは、「湯の沸くよう」にするための行為全体の象徴的表現と言えます。つまり、点茶における準備の重要性を説いているのです。
 日常生活においては、ガスコンロにヤカンをかけても、電気ポットで熱しても、沸騰した湯を得ることにさほど気遣いはいりません。
 しかし、客前で茶を点てる場合はそうはいきません。釜に満たした湯を沸騰した状態にするためには、釜にたっぷりと水を注ぎ、それを加熱し続け、そのための火を熾こした炭を用意しなければなりません。勿論、炉・風炉の準備も必要です。
 ならば、何故その中でも炭の「置き」に焦点があてられるのでしょうか。それは、湯の沸き具合を左右する存在だからです。水は熱っせられて湯になるのであって、自らは変化できません。と言っても、火力が一定ならば水の量や釜蓋の開閉で加減は可能です。そうなると、一番大切なのが最初の火の調節ということになります。全ては「湯の沸くよう」に火力が維持されて、初めて加減が成立するわけですから。ところが、一旦火を熾こし、水を満たした釜を乗せた後では、炭の調節はできません。そのため、予め最良の炭の置き方が求められるということです。

 亭主の解釈……「準備・段取りは、要となるツボを押さえて。」

三、花は野にあるように

 ここで注意したいのは、「あるように」ということです。「あるままに」ではないのです。
 これは、「写実」と「写真」の違いに似ています。時々、写実的絵画を見て「写真みたいにそっくり」などと言う人がいますが、失礼な話です。「写実」とは、ある瞬間の本質的姿を切り取って描くことであり、「写真」はありのままの像に過ぎません。(そのため、写真家の感性と力量があって、初めて心に訴えかける作品が生まれるわけですから。)
 つまり、その花が咲いていた状態を感じさせる姿に生けることを促しているのであって、咲いていた状態を再現することを望んでいるわけではありません。たとえ、その場に何輪も咲いていたとしても、一輪でそれを表現出来れば「あるように」ということになります。また、余計なものを省く程、受け手の想像にふくらみが生まれます。

 この言葉の真の意味……「ものの表現は、本質を知り、より簡潔に。」 

四、夏は涼しく冬暖かに

 現代のように空調などで室内の温度・湿度が自由にできれば、あえて取り上げる程のことでもないように考えられるかもしれません。しかし、その意味にはもう少し深いものがあります。
 勿論、当時は本当に実質的に快適な「夏は涼しく冬暖か」を求めた部分は当然あったでしょう。でも、それが叶わないことで工夫が生まれました。本来皮膚で感じている環境の変化を、耳や目によって実際とは異なる状態に感じさせる方法、つまり、感性による演出を考え出したのです。例えば、水や氷またはそれらを連想させるものは触れなくても「涼」を、火や日またはそれらを連想させるものは当たらなくても「暖」を、音や色から感じさせます。
 また、このことは茶席に新しい趣を加えました。演出する亭主が「心」で環境の調整を試みている以上、受ける客も体感だけで「暑い、寒い」は言えなくなります。思いやりを根底にしながら、もてなす側と受ける側の真剣勝負が成立し、「興」を添えるようになります。しかもこの「勝負」は、負けた方がより嬉しいはずです。亭主にとっては、趣向を読み取られるということは、客が充分楽しんでくれたことになります。逆に客にとっては、趣向に簡単に気がつけないということは、亭主が自分が考える以上に気遣ってくれたことになります。

 亭主の解釈……「もてなしは、相手を想う心で。」

五、刻限は早めに

 これは、単に「時間の約束がある時は早めに行くように」、などと時間厳守を説いているのではありません。何故なら、それはわざわざ言うまでもない、至極当然のことだからです。
 ここで言う「刻限」とは、「時刻」に対する意識・認識を指します。つまり、それを「早めに」とは、常に自分の中の時計の針を進めておくということです。
 いかなる場合でも、現実の時間よりも自分のイメージの時間が常に先行していれば、その時差が心の余裕となって、焦りを防止してくれます。焦りがなく平常心でいることは、ゆとりを持って人に接するためにとても大切なことです。

 亭主の解釈……「ゆとりは、自らの心掛けによって。」

六、降らずとも傘の用意

 一言で言えば、備えを怠らない心掛けを説いていることになりますが、「備えあれば憂い無し」とは少し意味が異なります。
 後者の場合、「憂い」とは自分自身の心配であって、それを消すことによって安心を得る意味になります。しかし前者の場合は、招く側が客に対して行う気遣いを言っているわけですから、他者に対する思いやりを持つ意味になります。ここで言う「傘」は、現在とは異なった状況になった時に初めて必要になる物の象徴です。つまり、その時他者に「憂い」を持たせないため、自分が不測の事態を想定しておくことが大切なのです。
 ちなみに、現代人の感覚でこの言葉を読むと、つい誤解してしまいがちです。「お茶会に行く日の出掛けに、この言葉を思い出して折りたたみ傘を携帯して雨に濡れずにすんだ」、というのは本来の意味とは違います。昔は折りたたみ傘など存在しませんでしたので、人の家に招かれた際に、降りもしないのに傘を持参するようなことはありませんでした。

 亭主の解釈……「備えは、万人の憂いを想定して。」

七、相客に心せよ

 「相客」とは同席した客を指し、「心せよ」とは気を配りなさいということです。
 これは読んで字の如く、同じ場所に居合わせたら、お互いに気遣い、思いやる心を持つように、と説いているのです。これこそが、茶の湯の真髄と言える言葉でしょう。
 そもそも「茶」とは、どんなに良質の素材を用いて最善の製法で作り、それを丁寧に点てたとしても、所詮ただの飲み物に過ぎません。批難を恐れず敢えて言えば、茶室も庭も、茶道具も菓子も、作法の所作にしても、この心を持たなければ「たかが」を付けて言い捨てられる存在です。何故なら、どれ一つを取っても、「心」の裏打ち無しでは、みな単なる嗜好の産物で終わってしまうような、ごく限られた用途のものばかりです。しかし実際は、互いに気遣い・思いやる「心」を持つがゆえに、「茶の湯」は単なる趣味の域を超えた世界を有しているのです。
 これはまた、「一期一会」の精神が根底にあるからとも言えます。本来は、「一生に一度しか会う機会が無いような、不思議な縁」という意味で、「だから出逢いを大切にするように」と説かれるわけですが、解釈としてはもう一歩進めて、常なる存在にも適用されます。つまり、「見馴れた物にも新鮮な気持ちで、親しい関係にも等閑な態度をとらずに、その縁を大事にする」ということです。初めて会った人を気遣うことは日常においても当たり前、むしろそうではない人にも同じように気を配るのが真の意味でしょう。
 茶席に上がれば、日ごろ冗談を言い合う友人も、毎日顔を会わせている妻や夫も、皆相客です。「親しさ」「睦まじさ」と「馴れ」の違いを、非日常のこの空間は教えてくれるでしょう。

 亭主の解釈……「何事に接するにも、無垢な心で。」