岡山科学技術専門学校 建築工学科: 2月 2011


2011/02/09

建築工学科 作品展2011




























今年も本校の建築作品展の時期がやって来ました。
各学年それぞれ年度の締めとして、これまで勉強して来た設計製図、CAD、CG等のテクニックを駆使し、作品も間もなく完成です。
今年は、岡山県下の大学・短大・専門学校・高校を対象に行われた建築設計コンペにおいて最優秀賞を受賞するなど実り多き学生達の成果を是非御覧頂ければと思います。
ご興味のある方は、お友達やご家族の方ともご一緒に、会場のほうまでお越し下さい。
なお、日程・場所は、以下の通りです。


『建築工学科 作品展2011』
日程:3月4日(金)〜7日(日)
時間:10:00〜18:00 なお最終日は15:00迄となります。
場所:〒700-8634 岡山市北区柳町2-1-1
   山陽新聞本社ビル2F サンタギャラリー
料金:無料
駐車:お手数ですが周辺の有料駐車場をご利用ください。
問合せ:岡山科学技術専門学校 建築工学科
    ホームページ:http://www.oist.ac.jp


P.S.
ブログ下の年間スケジュールを更新しました。
あくまで仮決定分でアップしていますので変更される可能性があることをご理解の上、ご利用頂ければ幸いです。

講演会「建築をいかに作るか」から「建築をいかに使うか」へ
















写真 via kefsc (プロフィールはこちら

もう一つ講演会のお知らせ。

日 時 : 平成23年3月12日(土) 14:00〜17:00
場 所 : 広島工業大学広島校舎201教室
      〒730-0811 広島市中区中島町5-7 (広島平和記念公園がすぐ近くにあります)
講演者 : 古谷誠章氏 /早稲田大学大学院創造理工学研究科教授
テーマ : 「建築をいかに作るか」から「建築をいかに使うか」へ
主 催 : (社)日本都市計画学会中国四国支部
後 援 : (社)日本建築学会中国支部、(社)土木学会中国支部

参加申込み
 「氏名・所属機関・連絡先(住所、電話番号)」を下記あてに電子メールまたはFAXにて、平成23年3月4日(金)までにご連絡ください。
 広島修道大学人間環境学部 三浦浩之宛
 Email : hmiura@shudo-u.ac.jp FAX : 082-830-1950

岡山理科大学建築学科創設4周年記念国際シンポジウム

















写真 via ASIA EVENT



岡山理科大学建築学科創設4周年記念国際シンポジウムが理大ホールにて開催されます。
中国地方では珍しい規模のシンポジウムになりますので是非参加してみてはいかがでしょうか?
参加には登録が必要ですので、まずは下記 をご参照ください。

日 時 : 平成23年2月22日(火)13:30〜
場 所 : 岡山理科大学ホール
テーマ : 建築デザインの最先端と建築設計教育
基調講演 : 伊東豊雄 先生 /建築家
パネリスト : Nader Tehrani (Professor,head of Department,MIT)
       : 徐 衛国(清華大学教授、同建築学院副院長)
       : Stephen S. LAU(Professor,The University of HONG KONG )
       : 後藤義明(岡山理科大学教授)
       : モデレイター:宗本順三(岡山理科大学教授)
主 催 : 岡山理科大学建築学科
後 援 : 岡山県、岡山市、倉敷市、(社)日本都市計画学会中国四国支部 ほか

参加申込み : 次のURLからお申し込み下さい
 http://www.archi.ous.ac.jp/form.html
問合せ先 : 緒方清隆/岡山理科大学総合情報学部建築学科
 Email : ogata@archi.ous.ac.jp TEL&FAX : 086-256-9758(直通)

2011/02/08

“樹上の部族”



今日はパプア南東の秘境、コロワイ。そこに暮らす“樹上の部族”を紹介します。
この樹上の部族コロワイ族、御存知の方もいるかも知れませんが、世界に数えるほどしかない人肉食の首狩り族です。
パプアは、インドネシアの島々の中で一番東側に位置するニューギニア島の西半分。ちなみに東半分がパプアニューギニア。
彼らの生きている世界は、生と死が常に隣り合わせと言う野生の狩猟採集の世界。
気候的には熱帯気候でモンスーンの影響下にあり、基本的に年中高温多雨。主に5月から11月が乾季で、12月から3月が雨季と言った具合で、その熱帯という気候条件ゆえに畑作にも向かず、食料を計画的に栽培したりといった文化も育たなかったのだろう。

もちろん狩猟採取の生活ともなれば食にありつける日もあれば、そうでない日もある。食にありつけない日が続けば、人をという事にもなるわけだ。
ただ、飢餓になると人は人肉を食べるという話は、表沙汰にはしないだけで、今でこそ聞かないが昔は珍しい事でもなかったようである。日本でも秀吉(厳密には後の秀吉、藤吉郎)が城攻めした鳥取城内で人肉が食べられた記録が残っているし、ヨーロッパでも飢えた兵士らが戦いで殺された市民の死体を食べたという話が年代記作者らにより記録されている。

余談になるが、お隣の大国では、人肉食は、食文化の一つであり、かつて人肉料理のメニューさえあったという記録が残っており、当時の食肉用の人間は「両脚羊」と呼ばれていたというのだから言葉を失う。
1984年、台湾近郊での炭鉱事故で生き残るために人肉を食べ、ただ一人生き残った炭坑夫が「やはり死んだ人間の肉は旨くない。旨いのは生きた人間の肉だ」と発言して大きな話題を呼んだニュースもあった程だから、今でも表には出ない裏メニューとして息づいている可能性もありそうで、むむむむむ。

話はもとい、パプアの熱帯環境下ではちょっとした切り傷なんかも感染症等引き起こし、場合によっては死に至る事も珍しくなく、どうも薬や医療などとはほど遠い生活のようである。森の陸上には害虫もいれば、凶暴な獣もいる、縄張りを争う敵もいるだろう。そういった外敵から身を守るために彼らは「樹上に住む」という選択にいたったというのだから、その発案者はかなりエキセントリックなアイデアの持ち主で、それはそれは罠の仕掛け方も独特で、狩りの腕前も良かったのだろう。
家についてだが、その高さは大抵が6mから25m程に位置するものが多く、かつて高いものでは40〜50mもある木の上に建てられたものもあったようだ。

やはりそこまで高いとそれは「ジャングル勇者」を示す証の他、何ものでもなく、機能性を超越した見栄に他ならないという。(むむむ。。。微笑ましい。。。)毎日の狩猟への通勤時間もかかることになるしその家族からすればたまったものでないと思ってしまうのは私だけだろうか?

ちなみにこのコロワイ族の存在が発見されたのは30年程前だそう。
それにしてもこの世界には、まだ発見されていない民族や文化が存在するのか?
するとしたらどうか真っ先に本校までお知らせください。





2011/02/03

姫路城修復工事が常時公開




















姫路の世界遺産、白鷺城(はくろじょう/しらさぎじょう)こと姫路城がいま大修復工事をしているのは皆さん御存知かと思いますが、その修復工事の様子が常時見学できるというのは御存知でしたか。(詳しい内容は姫路市のHPから検索してください。http://himejijo-syuri.jp/

「市の観光は城で持っているようなもの。工事中であることを逆手に取って、客離れを食い止めたい」と市商工観光局の岡本陽一理事がケンプラッツの記事内で話されているように姫路市の観光産業は姫路城で持っているのは間違いないだろう。その世界遺産にも指定されている姫路城の修復作業を広く公開することで、姫路市の観光客離れ食い止めるこの企画、間違いなく成功するだろう。
何より驚いたのが修復によって覆いかぶされてしまう観光資源をこのような手法でよって逆に利用する試みは国内初だということ。
先日紹介した、サグラダ・ファミリアも然り。建設・修復現場を公開しする例は、海外では珍しい事ではない。ただ、普段は絶対に見れない外側から建物を見、そして細かく刻まれた時間と歴史、職人の技、匠の心を生で観察出来る機会はそう簡単にはやって来ない。確かに日本では前例はないし、これからも多くはないだろう。ましてや日本に現存している城の中でも最も美しい姫路城だ、ボクは絶対に観に行くぞ!!











写真左:姫路城、右:岡山城

ところで姫路の白鷺城、どうして白鷺と呼ばれるにいたったのか諸説がありますが、建立時期は「姫路城史」や「備前軍記」から両者ともに1346年との説があり、岡山の黒い壁を象徴的に表す烏城(うじょう)との対比があったのだろうと想像する方がロマンがあって興味をそそられる。

さらにもっと原点に立ち返って、城ってなんで「しろ」と呼ばれるに至ったのだろう?と思いを巡らせながらささっと調べて見ると、ウィキペディアで城の起源について『「しろ」『古語大辞典』 角川書店、1987年』を引用してこう記されている。

現在では“城”という字を訓で“しろ”と読むが、かつては“しろ”という大和言葉は存在しなかったと思われる。古代から中世初期までは、“城”のほかに“柵”という字も用い、“き”と呼ばれていた(城柵)(→城 (き))。たとえば、大宰府のそばにある大野城は“おおののき”であり、山形県の出羽柵は“でわのき”であった。
しかし延暦13年(794年)11月15日に“やましろ”と訓ぜられていた山背国が山城国に改名されると、「山城」という語を“やましろ”と読むようになる。その後山に城を造って領国を守る時代が訪れ、中世後期には“城”は“しろ”と読まれた。文明6年(1474年)の『文明本節用集』には“城”に“シロ”の訓がある。

なるほど、やましろブームが「城/しろ」の起源(「しろ」という言葉を定着させた理由)とは面白い。

それにしても城見学も以外とマニアックで面白いという感覚、味わったことありますか?
通常の城見学とは違い、日本で今後こういった城修復見学のチャンスがどれほどあるかと日本の『城』一覧なるものを調べてみるとこれまた予想を遥かにもの凄い数の城。ちょっと解説すると、日本にはかつて25000以上もの城が存在したそうで実際にはただ柵で囲われただけの砦のようなものもあり、文書に残っているのみでその存在が証されたのではないものも含まれるそうが、それでも相当数存在していたそう。数多くの戦や藩主の転封の度に廃城になったり破却されたりとその数は次第に減っていき、江戸後期にはその総数およそ200。さらにその後の明治維新の廃城令や戦争、火災、天災を免れて”現存”しているのが12城。

ちなみにその天守や城郭が往時のまま現存しているのは『丸岡城、犬山城、松本城、彦根城、松江城、高梁城(備中松山城)、丸亀城、姫路城、松山城、高知城、宇和島城、弘前城』。

では、それ以外の現在見られる城はというと、それらは戦後の「天守閣復興ブーム」や「お城復興ブーム」などと呼ばれる昭和30年代、同40年代を中心に復興されたもの。
中には当時の姿を再現するどころか、当時建てたらこんな感じになるだろう風に建てられた城なんかもあり、城一つ見てもこれ迄の見方と違った見方が出来て面白い。知るとショックだが、木造だろうと思っていた地元の城がばっちり鉄筋コンクリート造なんてことも良くある話。その点では先日、岡山の烏城に行ったが、見事な鉄筋コンクリート造。岡山の建築史を良く知る建築家の先生から聞いた話では、オリジナルの岡山城の姿は、1945年の岡山空襲により焼失してしまう前に幸運にも早大の研究によりしっかりと記録・図面化されており、今でも木造で建て直そうと思えば建て直せるという。
まあ、岡山城は、記録が残っているのでまだ将来的に微かな完全復興の望みはあるが、こういったいわゆる”ハリボテ城”がどんどん出来ては城の価値も下がるというもの。
そこで起こったのが「平成の復興ブーム」や「第2次復興ブーム」。1988年以降、竹下政権の「ふるさと創生事業」により史跡での再建行為が忠実なものであることが求められるようになり、現存する資料に基づいた木造での復元や復興が原則となったのです。

ちなみに”ハリボテ城”が築造されて来た背景には、経済的な話や建設工期、経験のある大工の人手不足など、さまざまな問題に加え、建築基準法改正により改正後の構造基準をクリアー出来ないなどといった現実的な問題もあったそうです。大工一つにしても宮大工や船大工はあっても城大工といったジャンルが残っていないというのも興味深いが、戦国時代は築造にかかわった大工は機密保持の目的で殺害されたそうだから、胸を張って城大工だという事を明かす者はほとんどいなかったのだろう。そう言う話からすれば当時の城大工は日本版フリーメイソンだったという事なのかもしれませんね。

こうして歴史を紐解いていくとどんどん話は膨らんでいきその展開にきりがない。

話があちこち飛んでしまいました、是非この機会に姫路城を上から横から見てみてはいかがですか!
城に対する価値観が変るの間違い無しですよ!