岡山科学技術専門学校 建築工学科: 姫路城修復工事が常時公開


2011/02/03

姫路城修復工事が常時公開




















姫路の世界遺産、白鷺城(はくろじょう/しらさぎじょう)こと姫路城がいま大修復工事をしているのは皆さん御存知かと思いますが、その修復工事の様子が常時見学できるというのは御存知でしたか。(詳しい内容は姫路市のHPから検索してください。http://himejijo-syuri.jp/

「市の観光は城で持っているようなもの。工事中であることを逆手に取って、客離れを食い止めたい」と市商工観光局の岡本陽一理事がケンプラッツの記事内で話されているように姫路市の観光産業は姫路城で持っているのは間違いないだろう。その世界遺産にも指定されている姫路城の修復作業を広く公開することで、姫路市の観光客離れ食い止めるこの企画、間違いなく成功するだろう。
何より驚いたのが修復によって覆いかぶされてしまう観光資源をこのような手法でよって逆に利用する試みは国内初だということ。
先日紹介した、サグラダ・ファミリアも然り。建設・修復現場を公開しする例は、海外では珍しい事ではない。ただ、普段は絶対に見れない外側から建物を見、そして細かく刻まれた時間と歴史、職人の技、匠の心を生で観察出来る機会はそう簡単にはやって来ない。確かに日本では前例はないし、これからも多くはないだろう。ましてや日本に現存している城の中でも最も美しい姫路城だ、ボクは絶対に観に行くぞ!!











写真左:姫路城、右:岡山城

ところで姫路の白鷺城、どうして白鷺と呼ばれるにいたったのか諸説がありますが、建立時期は「姫路城史」や「備前軍記」から両者ともに1346年との説があり、岡山の黒い壁を象徴的に表す烏城(うじょう)との対比があったのだろうと想像する方がロマンがあって興味をそそられる。

さらにもっと原点に立ち返って、城ってなんで「しろ」と呼ばれるに至ったのだろう?と思いを巡らせながらささっと調べて見ると、ウィキペディアで城の起源について『「しろ」『古語大辞典』 角川書店、1987年』を引用してこう記されている。

現在では“城”という字を訓で“しろ”と読むが、かつては“しろ”という大和言葉は存在しなかったと思われる。古代から中世初期までは、“城”のほかに“柵”という字も用い、“き”と呼ばれていた(城柵)(→城 (き))。たとえば、大宰府のそばにある大野城は“おおののき”であり、山形県の出羽柵は“でわのき”であった。
しかし延暦13年(794年)11月15日に“やましろ”と訓ぜられていた山背国が山城国に改名されると、「山城」という語を“やましろ”と読むようになる。その後山に城を造って領国を守る時代が訪れ、中世後期には“城”は“しろ”と読まれた。文明6年(1474年)の『文明本節用集』には“城”に“シロ”の訓がある。

なるほど、やましろブームが「城/しろ」の起源(「しろ」という言葉を定着させた理由)とは面白い。

それにしても城見学も以外とマニアックで面白いという感覚、味わったことありますか?
通常の城見学とは違い、日本で今後こういった城修復見学のチャンスがどれほどあるかと日本の『城』一覧なるものを調べてみるとこれまた予想を遥かにもの凄い数の城。ちょっと解説すると、日本にはかつて25000以上もの城が存在したそうで実際にはただ柵で囲われただけの砦のようなものもあり、文書に残っているのみでその存在が証されたのではないものも含まれるそうが、それでも相当数存在していたそう。数多くの戦や藩主の転封の度に廃城になったり破却されたりとその数は次第に減っていき、江戸後期にはその総数およそ200。さらにその後の明治維新の廃城令や戦争、火災、天災を免れて”現存”しているのが12城。

ちなみにその天守や城郭が往時のまま現存しているのは『丸岡城、犬山城、松本城、彦根城、松江城、高梁城(備中松山城)、丸亀城、姫路城、松山城、高知城、宇和島城、弘前城』。

では、それ以外の現在見られる城はというと、それらは戦後の「天守閣復興ブーム」や「お城復興ブーム」などと呼ばれる昭和30年代、同40年代を中心に復興されたもの。
中には当時の姿を再現するどころか、当時建てたらこんな感じになるだろう風に建てられた城なんかもあり、城一つ見てもこれ迄の見方と違った見方が出来て面白い。知るとショックだが、木造だろうと思っていた地元の城がばっちり鉄筋コンクリート造なんてことも良くある話。その点では先日、岡山の烏城に行ったが、見事な鉄筋コンクリート造。岡山の建築史を良く知る建築家の先生から聞いた話では、オリジナルの岡山城の姿は、1945年の岡山空襲により焼失してしまう前に幸運にも早大の研究によりしっかりと記録・図面化されており、今でも木造で建て直そうと思えば建て直せるという。
まあ、岡山城は、記録が残っているのでまだ将来的に微かな完全復興の望みはあるが、こういったいわゆる”ハリボテ城”がどんどん出来ては城の価値も下がるというもの。
そこで起こったのが「平成の復興ブーム」や「第2次復興ブーム」。1988年以降、竹下政権の「ふるさと創生事業」により史跡での再建行為が忠実なものであることが求められるようになり、現存する資料に基づいた木造での復元や復興が原則となったのです。

ちなみに”ハリボテ城”が築造されて来た背景には、経済的な話や建設工期、経験のある大工の人手不足など、さまざまな問題に加え、建築基準法改正により改正後の構造基準をクリアー出来ないなどといった現実的な問題もあったそうです。大工一つにしても宮大工や船大工はあっても城大工といったジャンルが残っていないというのも興味深いが、戦国時代は築造にかかわった大工は機密保持の目的で殺害されたそうだから、胸を張って城大工だという事を明かす者はほとんどいなかったのだろう。そう言う話からすれば当時の城大工は日本版フリーメイソンだったという事なのかもしれませんね。

こうして歴史を紐解いていくとどんどん話は膨らんでいきその展開にきりがない。

話があちこち飛んでしまいました、是非この機会に姫路城を上から横から見てみてはいかがですか!
城に対する価値観が変るの間違い無しですよ!